歴 史HISTORY
縁起と歴史
七宝瀧寺の歴史
中興‐南北朝時代
犬鳴山は、紀伊、和泉、河内の連絡には要衛の地でもあったため、犬鳴山と南朝方とは特に密接な関係にありました。楠木正成の一族(楠木正行、楠木正時、楠木正儀ら)の勢力は山伏の勢力範囲と重なっていたため、その陣容は、武家と笠置、吉野、粉河、犬鳴等の山伏との混成部隊でした。
正平十七年(1362年)南朝方の最後の主戦論者の中心武臣であった橋本正高は、志一上人を犬鳴山に招いて不動堂を建立しました。これによって、志一上人による当山の中興がなされました。
志一上人は学徳ともに優れた名僧でしたが、正高が志一上人を犬鳴山へ招いた理由は、志一上人への深い帰依だけでなく、犬鳴山伏の一大勢力を頼ってのことでもありました。
橋本正高と犬鳴山伏は良好な関係を継続し、その後天授二年(1375年)八月には、当山法師願正上人に命じ、法華妙典一万部を納め国家安穏の大修法をなさしめ(この時の祈祷供養板碑は本堂横手に現存)、新たに十四坊を建立し、前後あわせて二十の僧坊をかためることとなりました。
実に犬鳴山の山伏は、この要栄に翻居して、和泉、紀伊の連絡の鍵を握っており、この犬鳴山の山伏の後楯によって、天授四年(1378年)十一月、十二月の戦いにおいて橋本正高は寡兵ながらも、細川氏春、細川頼元、山名義理の三万の大群を土丸城によって防いだのです。正高はこの戦いに敗れて紀伊に退きましたが、翌天授五年(1379年)正月、再び紀伊から和泉に打って出て、土丸城を奪取してこれに拠りました。
その後さらに義兵を挙げましたが敗れ、さらにその夏、山を越えて和泉に打って出ました。これら数回の山越えに際し、犬鳴山の山伏がいかに力添えになったかは容易に想像できます。
室町時代
室町時代は熊野信仰と葛城修験道の隆盛にしたがって当山もまた隆盛を極め、今なお山中至るところに当時の供養碑等が数多現存しています。この時代、関白内大臣九条植通(1504〜1558)は、当山に参詣し「思いきや七の宝の瀧に来て六つのにごりを清むべきかや」と詠むなど、貴顕・卿大夫諸侯も足を運んでいます。
安土桃山時代
安土桃山時代は戦国時代の群雄割拠のため、近畿の山野は至る処兵火に犯され名刹は何れも受難時代でした。織田信長も、自己の意のままにならなかったと、当山の寺領数百町歩を没収しました。天正十三年(1585年)には、豊臣秀吉の兵火に罹って本堂以下の諸堂悉く焼失しましたが、その後秀吉は米麦を寄進すると共に滝本坊(現:宿坊)を再建、御供米として三十石を寄付しました。
江戸時代
江戸時代になると修験道の復興と併行して当山も隆盛となり、承応元年(1652〜1655)には観音堂を建立し万治年間(1658〜1661)には本堂の修理が行われ現在の本堂下石橋が架けられました。また、領主岡部行隆公は新田五反を寄進するなど、世人の信仰が深まってきました。享保五年には本堂が再建され、佐野の豪商食野行康が石灯籠を寄進し、安然法師は寺記を編集しました。寛政五年には岡部長備公が石灯籠を寄進し、岡部家歴代の位碑が納められました。また、江戸、大阪、堺、岸和田を始め大和紀州などの信者による石灯籠、道標の寄進があることからも、その当時の人々の信仰の篤さが想像できます。さらに嘉永二年には、葛城修験道の現存せる唯一の文献であり峯中記である「葛嶺雑記」が、当寺に於いて智航によって執筆されました。

現在の七宝瀧寺
明治時代の初めには廃仏毀釈と共に修験道が禁止され山内は著しく衰えましたが、明治後期には再興し、以後も先の大戦を乗り越えて復興に努めてきました。昭和二十五年(1950年)八月七日には往時の宗教体制に還り、新たに真言宗犬鳴派を公唱、葛城修験道の根本道場として修験道総本部を置くなど再興を見つつあります。
現在の寺域は十八万三千四百坪を有し、倶利伽羅大龍不動明王(命迄い不動明王)を祀る霊場として多くの信仰を集めるとともに、葛城修験の入峯修行や山内行場での修行にも力を入れており、大いに面目一新しつつあります。